質屋の休息②~歴史のじかん~
こんにちは、質受付担当の鹿野です!
突然ですが、みなさんは質屋のはじまりがいつからなのかご存知ですか?
わたしは入社したころ「むかーしからある商法」という漠然としたイメージでした(◦_◦)
今回はうつぼの話題から少し逸れて【質屋の歴史】についてお話ししたいと思います。
時代ごとに分けてありますが、いつもより字が多くて長いので
何回かに分けてでもゆっくりと読んでいただければと思います(^o^)/
日本で質のようなシステムが誕生したのは、約800年前の鎌倉時代からだそうです(゜д゜)!
まだ物々交換が盛んだった時代に日宋貿易がはじまり、宋銭の流通が急速に普及したころのこと。
はじめは「借上(かしあげ)」と呼ばれ、無担保で高利の金貸しを行っていました。
その後「借上」は担保として品物を預かるようになり、鎌倉後期から室町時代には
酒屋や味噌屋など醸造業が、いわゆる副業として営むようになります。
そのころから「土倉(どそう)」と呼ばれるようになりました。
預かった品物を保管するために土倉(土壁塗りの倉庫)を建てたことに由来するそうです。
「土倉」は主に庶民や武士に利用されていましたが、担保としている品物が多く集まることで
経済的に権力を握りはじめます。
そのことが徐々に庶民の反感を買い
徳政令の発布を求める土一揆(徳政一揆)の被害に遭ったり
徳政令によって膨大な債権を失ったりすることで経営難になっていきました。
戦国時代から江戸時代には泥と漆喰を塗って作った土蔵が作られるようになりました。
土蔵は耐火性が高いと注目されており、火事が頻繁にあった江戸時代には
担保を保管する蔵としてはもとより、町中で流行となりました。
一方「土倉」については、この時代に現在とほとんど変わらないシステム
(品物を担保として預かり、期限が過ぎると売却される)が確立し
名称が「質屋」に変わっていきます。
江戸の中期、徳川綱吉の時代(元禄時代)になると経済成長を迎え、「質屋」は庶民の生活に定着します。
経済成長の波に乗って、「質屋」の数が急増しました。
そして徳川吉宗の時代(享保時代)は不景気となりますが、ここでも「質屋」は増加していきます。
庶民が生活を保つために「質屋」を頼り、需要が増えていったからです。
この時期に江戸の町にあった「質屋」は、1,500件ほどから2,700件あまりまで増加します。
ちなみに令和2年時点で質屋営業の許可を得ているのは約2,600件。
この件数にチェーン店舗は含まれていないと考えても、江戸の街中だけで2,700件という数字は
当時の人口を考えてもかなり数が多く、いかに庶民から重宝されていたかが感じ取れますね(*^-^*)
明治時代に入るとヨーロッパの新しい金融制度が採用されはじめ
「質屋」の需要が銀行へと移り変わります。Σ( ̄ロ ̄lll)
庶民を対象とした営業が中心となり、明治時代末期には東京の質屋は約2,000件ほどとなりました。
昭和に入り1970年代になると
団地金融(無担保・無保証人で金貸しをする消費者金融やサラ金の前身)が利用されるようになり
ここから質屋の衰退がどんどん進みます。Σ( ̄ロ ̄lll)Σ( ̄ロ ̄lll)
・・・平成にきて、転機!!
2007年にリーマンショックが起こると質屋はふたたび注目を集めました!
世界の金融関連の株が下落しているのに、質屋は「品物を預かって融資をする」というシステムを貫くことで
株価が高騰したためです👏👏
このように、800年の中で衰退と繁栄を繰り返しながらも途絶えることはなく
現在も利用され続けている商いが質屋です\(^o^)/
鎌倉時代の物々交換から比べると今の世の中での貨幣の存在は計り知れないほどに大きく
クレジットやローン契約には信用情報が必要不可欠など、どんどんややこしくなっています。
質屋はそのような情報や審査などのない時代を生き抜いてきているので
安心や信頼がある上に、担保になる品物さえあればお金を借りられるという
簡単なシステムを維持しています。
まだまだ馴染みのない方も多いかと思いますが、質屋の歴史を知ることで
少しでもうつぼを身近に感じていただければと思います(*^_^*)
長い長いブログを読んでいただき、ありがとうございました!